明治の東京に咲いた、北の恵み:幻の開拓使物産売捌所
皆さま、こんにちは!「JAPAN思い出BOX」へようこそ。
今回は、明治という時代の東京に、短い間だけ存在した、まるで絵本から飛び出してきたような美しい建物の古写真をご紹介します。そこに写っているのは、開拓使物産売捌所(かいたくしぶっさんうりさばきしょ)。明治13年(1880年)に竣工したこの建物は、北海道の開拓事業を東京で支えるための、小さな、しかし重要な拠点でした。
今ではその姿を見ることはできませんが、この一枚の写真から、当時の日本の開拓にかける情熱と、文明開化の華やかな雰囲気が伝わってきます。
日本近代建築の父、コンドルの初期の傑作
この建物の設計もまた、私たちがこれまで見てきた鹿鳴館やニコライ堂の設計にも関わった、ジョサイア・コンドルによるものです。この建物は、鹿鳴館(1883年竣工)よりも少し前に建てられており、コンドルが日本で手掛けた初期の作品の一つと言えます。
写真から分かるように、建物は温かみのある赤レンガ造りで、2階建ての優雅な洋館です。特に目を引くのは、1階と2階で異なるデザインの窓です。1階の窓は、丸いアーチが特徴的で、全体に柔らかな印象を与えています。一方で、2階の窓は、1階よりも少し背が高く、細やかな装飾が施されており、建物の格調を高めています。
窓の上部には、西洋建築らしい彫刻のような装飾が施され、建物全体が洗練された雰囲気に包まれています。まるで、日本の中心に現れた、小さなヨーロッパの商館のようです。
遠い北の大地とのつながり
この建物は、当時の東京・永代橋のたもとに建てられました。北海道開拓使が、開拓事業で生産された様々な物産(農産物や工芸品など)を、東京で販売するために使われていた場所です。
当時の北海道は、まだ未開の地が多く、厳しい自然と向き合いながら、開拓が進められていました。その中で、この小さな洋館は、東京にいる人々に、遠い北の大地の恵みと、そこで奮闘する開拓者たちの存在を伝える、重要な窓口だったのです。
写真の手前には、日本庭園のような趣のある松の木や庭石が見えます。西洋風の建物と、日本の伝統的な庭園が、違和感なく調和している様子は、まさに明治という時代を象徴しているかのようです。当時の日本人が、新しい文化を取り入れつつも、自国の美意識を大切にしていたことがうかがえます。
震災が奪い去った、幻の記憶
残念ながら、この美しい開拓使物産売捌所は、大正12年(1923年)の関東大震災によって焼失してしまいました。東京の街が大きく変わる中で、この建物もまた、時代の流れの中に消えていったのです。
しかし、この一枚の古写真は、明治という時代が、ただ大きな建物ばかりを建てていたわけではなく、このような愛らしく、そして意味のある建物が街のあちこちにあったことを私たちに教えてくれます。北海道の開拓という、日本の未来をかけた一大事業と、東京という都市の華やかさを結びつけた、まさに歴史の交差点のような場所だったと言えるでしょう。
「JAPAN思い出BOX」では、これからも、このような失われた建物の記憶を辿りながら、皆さんと一緒に、古き良き日本の物語を紡いでいきたいと考えています。
次回も、また別の「思い出の風景」でお会いしましょう!
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
1936(S11)明治大正建築写真聚覧 https://dl.ndl.go.jp/pid/1223059