鹿鳴館

鹿鳴館 思い出BOX
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幻の洋館が語る、文明開化の華:鹿鳴館の輝き

皆さま、こんにちは!「JAPAN思い出BOX」へようこそ。

今回ご紹介する一枚の古写真は、明治という激動の時代に、日本の首都・東京の真ん中に突如として現れた、まさに「幻の洋館」の姿を写し出しています。その名は**鹿鳴館(ろくめいかん)**。明治16年(1883年)に竣工したこの建物は、当時の日本が世界に向けて放った、まばゆいばかりの光であり、西洋化への強い意志を象徴する場所でした。

写真に写る鹿鳴館は、その歴史が物語る華やかさと、どこか遠い異国のような雰囲気をまとっています。この建物が、当時の人々にどれほどの驚きと期待、そして賛否両論をもたらしたか、想像を掻き立てられますね。

日本近代建築の父、コンドルの傑作

この鹿鳴館の設計を手がけたのは、日本近代建築の礎を築いた「お雇い外国人」建築家、ジョサイア・コンドルです。彼は、明治政府によって日本に招かれ、工部大学校(現在の東京大学工学部)で多くの日本人建築家を育てるとともに、旧岩崎家住宅や旧古河庭園の洋館など、数々の名建築を残しました。

鹿鳴館は、彼の初期の代表作の一つで、イタリアンルネサンス様式を基調とした、当時の最先端の西洋建築でした。写真からも、その優雅なアーチ窓、連なる柱、そして建物を引き締めるバルコニーなど、洗練されたデザインがうかがえます。

中央部分にそびえる、まるで灯台のような、あるいは展望台のような独特の塔も目を引きます。これは、当時の社交場にふさわしい、華やかさと先進性を表現するシンボルだったのかもしれません。その左右に広がる建物は、シンメトリー(左右対称)の美しさを見事に表現しており、見る者に安定感と威厳を感じさせます。

華やかなる「鹿鳴館時代」の舞台

鹿鳴館は、当時の外務卿(後の外務大臣)井上馨が、欧米諸国との不平等条約改正をめざし、外国人との交流の場として建設を主導しました。ここでは、夜な夜な舞踏会が開かれ、仮面舞踏会や慈善バザー、音楽会など、様々な西洋式の社交行事が繰り広げられました。

日本人政府高官やその夫人たちは、燕尾服やドレスを身につけ、西洋のダンスを習い、食事のマナーを学びました。まさに、日本が急ピッチで西洋化を進め、国際社会の一員として認められようと奮闘していた時代の象徴でした。写真の周りに見える、手入れされた広大な庭園や、右端に立つガゼボ(西洋風のあずまや)も、こうした華やかな社交の舞台を彩る要素だったことでしょう。池に映る建物の影も、その優雅さを際立たせています。

短くも濃密な「思い出」の象徴

しかし、鹿鳴館が社交の場として華々しく活動したのは、わずか数年のことでした。急激な欧化主義は、当時の日本社会で賛否両論を巻き起こし、やがてその役割を終えていきます。その後は、華族会館として利用されたりもしましたが、昭和15年(1940年)には解体されてしまい、今ではその姿を写真や資料の中でしか見ることができません。

鹿鳴館は、単なる建物ではありません。それは、明治の日本人が文明開化という大きな目標に向かって、必死にもがき、学び、そして時には葛藤しながら歩んだ道のりを象徴する存在です。華やかさと功罪、そして希望と批判が入り混じった、短くも濃密な「思い出」が詰まった場所。

この一枚の古写真から、私たちは、歴史の教科書だけでは感じられない、当時の人々の息遣いや、時代の熱気をありありと感じ取ることができます。「JAPAN思い出BOX」では、これからも、こうした歴史の断片を捉えた写真を通じて、皆さんの心の中に眠る「古き良き日本」の思い出を呼び覚ますお手伝いをしていきます。

次回も、また別の「思い出の風景」でお会いしましょう!

参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/

     1936(S11)明治大正建築写真聚覧 https://dl.ndl.go.jp/pid/1223059

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