ニコライ堂

ニコライ堂(ハリスト復活聖堂) 思い出BOX
ニコライ堂(ハリスト復活聖堂)

【歴史探訪】明治日本の光と影を映す「ニコライ堂」の魅力

皆さま、こんにちは!「JAPAN思い出BOX」へようこそ。

東京の御茶ノ水にそびえ立つ、荘厳なドームを冠した美しい建物――それが「ニコライ堂」の愛称で親しまれているハリスト復活聖堂です。日本の近代建築の夜明けを告げる明治時代に建てられたこの建築は、単なる建物以上の、豊かな歴史と文化の物語を私たちに語りかけてくれます。今回は、この「ニコライ堂」の魅力に迫り、その歴史的・建築的意義を探ります。

明治日本の西洋化を象徴する名建築

ニコライ堂は、明治24年(1891年)に竣工しました。その設計者は、お雇い外国人として日本の建築界に多大な貢献をしたイギリス人建築家、ジョサイヤ・コンドルです。コンドルは、明治時代に日本の近代建築教育の基礎を築き、工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)で多くの日本人建築家を育成しました。その功績から、彼は日本建築学会の「建築學界功勞者」として表彰されるなど、日本の建築界の発展に大きく貢献しました。

彼が手掛けた建築物には、外交の舞台として利用された「 鹿鳴館」(明治16年竣工)なども有名で、ニコライ堂もまた、当時の日本の西洋化政策と西洋文化の受容を象徴する、非常に重要な建築物の一つと言えるでしょう。

当時の最先端を行く建築技術と材料

ニコライ堂のような明治期の西洋建築は、当時の日本の建築技術と材料の進化の上に成り立っていました。この時代、日本には西洋の新しい建築様式や構造が本格的に導入され始めました。特に、れんが造は、初期の西洋建築において主要な構造の一つでした。当初は輸入された煉瓦が使われたこともありましたが、やがて国産の煉瓦製造技術も発展し、品質の高い煉瓦が供給されるようになりました。

ニコライ堂が竣工した明治20年代後半は、鉄筋コンクリート造や鉄骨造といった新しい構造技術が普及し始める過渡期にありました。しかし、ニコライ堂のような煉瓦造の西洋建築は、当時の日本の技術水準と、伝統的な木造建築とは異なる新しい材料や工法を導入する中で、建設されました。これらの建物は、日本の近代化の過程で、西洋の技術を積極的に取り入れ、都市景観や建築文化を大きく変革したことを示す貴重な証拠です。

震災を乗り越えた歴史と復興の象徴

実は、ニコライ堂はその長い歴史の中で、大きな災害に見舞われています。特に大正12年(1923年)の関東大震災では、大きな被害を受けました。ドーム部分が崩落するなど、その美しい姿は一時失われたと言われています。

しかし、多くの人々の支援と、当時の最新の建築技術、特に鉄筋コンクリートなどを用いた補強によって、ニコライ堂はその荘厳な姿を再び取り戻しました。この復興の歴史は、単に建物を修復するだけでなく、当時の日本の復興力と、災害に強い建築を目指す技術の進歩を示すものでもあります。

お茶の水の記憶、未来への証

ニコライ堂は、単なる美しい建築物としてだけでなく、日本の正教会の中心的な存在として、長きにわたり信仰を集めてきました。また、その独特な外観は、お茶の水のランドマークとして、多くの人々に親しまれてきました。

明治、大正、そして昭和初期と、日本の近代史を見守ってきたニコライ堂。この一枚の写真を通して、私たちは当時の人々の信仰心、異文化との出会い、そして災害からの復興という、様々な物語に触れることができます。

JAPAN思い出BOX」では、これからも、日本の各地に残る歴史的な建造物や風景をご紹介しながら、そこに息づく人々の記憶や物語を伝えていきたいと考えています。

次回も、また別の「思い出の風景」でお会いしましょう!

参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/

     1936(S11)明治大正建築写真聚覧 https://dl.ndl.go.jp/pid/1223059

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